熊本ゆかりの「武者」たち

細川幽斎・三斎・忠利

加藤家が徳川幕府から改易された後に、小倉藩から肥後に入国したのが、細川忠利です。
細川忠利の父は戦国武将の細川忠興(三斎)、母は明智光秀の娘・玉(ガラシャ)、祖父は細川家初代藤孝(幽斎)です。父・細川忠興(三斎)は有名な茶人であり、千利休の直弟子として利休流の奥儀をきわめ、利休七哲の一人に数えられています。祖父・細川藤孝(幽斎)は、文武両道秀でた武人で、日本歌学の最高峰である「古今和歌集」の奥儀を受け継ぎ、さらに八条宮智仁親王(桂宮)に伝授をしました。細川幽斎が八条宮智仁親王に古今伝授を行った「古今伝授之間」は、細川忠利が造営した水前寺成趣園(熊本市)へ大正元年に移築され、熊本県重要文化財として、今に至っています。
 
 詳しくは、こちらへ ■古今伝授之間─「日本の心」の継承を見守った重要文化財─
 

名君といわれる細川忠利は、肥後に入国するにあたり、加藤家に礼節を尽くすことに気を配りました。国入りの行列では先頭に加藤清正の位牌を掲げ、熊本城入城の際は駕籠から降り、西大手門で深々とぬかずいて「謹んで肥後54万石を拝領任ります」と加藤清正に祈り、天守からは加藤清正が眠る本妙寺の方角へ頭を下げたと伝えられています。
また、西大手門であまりにも深々と頭をたれたので、細川忠利のかぶっていた冠の先が敷居の中央に当たったとか。そのため、その後登城する藩士は門の中央を通らず、端を通るようになりました。
 
また、武芸にも通じていた細川忠利は、晩年に宮本武蔵を招きます。

千利休の流儀をそのまま伝えているといわれる肥後古流などの茶道文化や、宮本武蔵の二天一流が現在も伝えられているのは、細川家の文武両道の家風によるところが大きいのでしょう。

 

加藤清正

加藤清正は熊本で大変慕われており、現在も多くの人が愛情を込めて「せいしょこさん(清正公さん)」と呼びます。
加藤清正像すでに江戸時代から加藤清正は全国的に人気が高く、丈6尺3寸(約1.9メートル)の化け物のような帝釈栗毛にまたがった、6尺を超える清正の勇姿は、江戸でも、『江戸のもがりに さわりはすとも よけて通しゃれ 帝釈栗毛』と賛歌されたといわれます。
 
また、江戸時代の歌舞伎にも、しばしば加藤清正が登場します。演目とは全く関係ないのに、「さしたることはなけれども、現れ出でたる清正公」の台詞とともに突然登場。すっと舞台を横切って退場するだけで、観客が大喜びしたそうです。
 加藤清正像

様々な武名とともに、生涯豊臣秀吉に忠誠を誓っていた人間くさいエピソードも語り継がれています。
 
豊臣秀吉にとって天下分け目の戦いが、1583年に賤ヶ岳(しずがたけ、滋賀県)でおきました。自分の馬が2頭とも病気であったため、加藤清正は疾駆する秀吉軍に徒歩で従います。しかし、大垣から賤ヶ岳まで、一歩も遅れなかったといいます。この戦いで活躍した加藤清正は、「賤ヶ岳の七本槍」の一人に数えられます。
 イチョウと天守
熊本城を築城したおり、加藤清正は「実を籠城戦の非常食に」と、城内にイチョウの木を2本植えます。このとき加藤清正は「この銀杏の木が天守と同じ高さになった時、この城で兵乱が起こるだろう。」とつぶやいたそうです。
西南戦争で熊本城が戦場になったとき、このイチョウの木は、天守とほぼ同じ高さだったとか・・・
このイチョウの木は西南戦争で焼失しましたが、焼け残った根元から脇芽が成長し、今では小天守の高さに届かんばかりに成長し、茂っています。

 

宮本武蔵

 宮本武蔵
宮本武蔵は、1640年に熊本城主・細川忠利に招かれ、熊本にやってきました。熊本での宮本武蔵の仕事は、兵法者としての剣の指南や、細川忠利の相談役になることでした。
 
武人として名高い宮本武蔵ですが、熊本で二天一流(通称二刀流)を大成したほか、死の七日前に書き上げた「独行道」や霊巌洞(れいがんどう)にこもって、その死の直前まで書いていたという「五輪書」などが残されています。また、工芸・書画として「なまこのすかしぼり」の鍔(つば)や、「達磨」、「不動明王」などの作品も残しています。
 
達磨
 
宮本武蔵の葬儀で春山和尚が柩を大きな石の上にのせ、成仏するようにと引導を渡しました。このとき、晴天に雷鳴がとどろき、会葬者を驚かせたといいます。この故事により、その石を引導石と呼ぶようになりました。

 
 
熊本市内に数ヶ所ある宮本武蔵の墓や供養塔の一ヶ所は、「武蔵塚」です。現在は武蔵塚公園として整備されています。宮本武蔵は「死して後も上様が参勤に出府されるのをお守りしたい」と遺言したそうです。その遺言により、豊後街道ぞいのこの地に宮本武蔵は鎧姿のまま埋葬されたといわれています。

嘉納治五郎

嘉納治五郎は「柔道の父」とも呼ばれる講道館の創始者で、日本のオリンピック初参加に尽力するなど、日本のスポーツの道を開きました。
 
嘉納治五郎は、頭が良かったものの幼いころから体が弱かったそうです。体が弱いことにコンプレックスを抱いていた嘉納治五郎は、強くなりたいという思いから、親に反対されつつも柔術を習います。そして「柔道」を創りあげるほど強くなりました。
 
嘉納治五郎は講道館という道場を作りましたが、余分なお金がなく、食べ盛りの学生をかかえる道場経営は厳しいものでした。そこで嘉納治五郎は自ら道場を修理し、色あせた帽子には墨を塗ってごまかすなどの工夫をしました。
そんな嘉納治五郎のことを、多くの人が慕います。
 
第五高等学校(現熊本大学)の校長として熊本に赴任した嘉納治五郎が東京に帰る際は、多くの市民が駅まで見送りにきました。嘉納治五郎の留任を望む声も多かったそうです。