熊本城の石垣「武者返し」

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熊本城の石垣 「武者返し」

熊本城の築城は1601年頃に始まり、1607年頃に完成しました。熊本城は石垣の築き方に特徴があり、「武者返し」と呼ばれています。
 
竹之丸広場
城郭は周囲9Km(築城当時)、広さ約98万平方メートルで、その中に天守3、櫓49、櫓門18、城門29を持つ豪壮雄大な構えです。また自然の地形を巧みに利用した独特の築城技術がみられます。
この城は以後、加藤家2代(44年)、細川家11代(239年)の居城となりました。
 
 
「武者返し」は、石垣築造の名手と呼ばれた加藤清正が熊本城を築く際に作り出した「清正流石垣(せいしょうりゅういしがき)」のことです。他にもその反りの形から、「宮勾配」「扇の勾配」などと呼ばれています。この石垣は、直線的でなく、すそ部分の勾配が緩やかでも、上に登るにつれて反り返ってくるため、城に侵入してきた敵の武者や忍びを寄せ付けないことから、「武者返し」・「忍返し」と名づけられました。熊本城付近の地盤がゆるかったために、末広がりでどっしりした石垣が作られたと考えられています。
 
二様の石垣熊本城の石垣は全て「打ち込みハギ」という工法で積まれています。しかし、「二様の石垣」と呼ばれる元札櫓門(もとふだやぐらもん)跡の石垣では、二種類の石垣が見られます。同じ打ち込みハギでも「二様」という名の通り、隅石(すみいし、石垣の角)の積み方に違いがあります。
一方の石垣は傾斜が緩く、加藤清正が築城した頃の石垣と言われます。こちらは隅石に同じような大きさの石を使ってあります。
他方の石垣は傾斜が急で、長方体の石の長辺と短辺を交互に組み合わせることにより、より急な角度を出すことができる「算木積み(さんぎづみ)」という方法で隅石が積まれています。この傾斜の急な石垣は、細川忠利が本丸御殿増築の際に、積み足しました。
 
難攻不落の城として評価される熊本城ですが、その真価は1877年の西南戦争で発揮されます。
熊本の鎮台司令長官だった谷干城は、熊本城に籠城(ろうじょう)することを決断。約50日に及ぶ籠城戦の末、北上する薩摩軍の撃退に成功しました。熊本城の石垣には、そのとき薩摩軍に撃ち込まれたいくつもの砲弾の跡が、いまでも生々しく残っています。